琉球武将 タルミイ
600年前、沖縄本島南部(南山)を治めていたのは他魯毎です。三つに勢力に別れていた沖縄において、南山は少し様子が違っています。それぞれの勢力は拠点が1つであるのに対して、南山は2つあったのではないかということです。1つは今の糸満市で、もう一つは今の南城市にあったという説があります。これは歴史学で一定の考え方が出ていないので、どのみちなら2つあったほうがワクワクするのでないかと思っています。
しかしその1つ、今の南城市に城址がある島添大里城は、小さな隣村の武将である尚巴志によって落とされます。この事件はその時代においては、大きなニュースであっただろうと考えられています。「あの田舎者が島添大里城を倒しただとぉ!」いう声が上がっていたと思います。そんなニュースの翌年には南山の長が他魯毎のお父さんに変わったり、中国(明)に使者を送ったりしています。時代が変わった雰囲気が伝わってきます。
その後間も無く、尚巴志は沖縄一の大勢力の中山を攻め倒しています。これは大変なことです。もう沖縄は大混乱だはず。南山にもそんな空気は伝染したのでしょうか、南部を支配していたお父さんが殺されてしまいます。しかも兄弟に殺されたのです。もう大混乱!まさに戦国時代です。しかし、織田信長を倒した明智光秀のように、そのまま天下を取ることができなかったようです。いつの時代も人は怖いです。南部の地域地域を支配している人たちはそれを許しませんでした。では、だれが南部を支配するかという状況の中で、推挙されたのが他魯毎です。殺されたお父さんが信頼されていたからなのかもしれませんが、なんとなく唐突さを感じました。
(以下、フィクション)
百戦錬磨で、たぬき親父の集まった南山の按司たちは、自分はトップに出て目立ちたくないけど、自分の影響を政治に入れ込みたい、と思っていました。そこで担ぎ上げられたのが、タルミイです。父親をおじさんに殺され、大きなトラウマを抱えたタルミイは、その恐怖から周りを信用できなくなり、自分の意見も言えない状態になっていました。その状況を利用して彼を王座に座らせ、多くの人たちが影から政治を動かしていました。
タルミイの父は明との貿易を重要視していました。本人も明へ留学するくらいです。やはり、当時の沖縄に足りないものを大陸から入れていきたい、沖縄を変えたいと思っていたのでしょう。今では沖縄を代表する文化であるハーリーを輸入したのも父親です。そんな優れた父親をタルミイは、とても尊敬していました。そして悲惨な父の死。
王の座についたタルミイは、初めは周りに動かされていましたが、少しずつ彼の父の意志を引き継ぐ考えになっていったことでしょう。父親が残していった外交として、タルミイは中国(明)から公式に関係を結ぶための大派遣団(冊封)を受け入れました。南山の王と認められる荘厳な儀式の中で、タルミイは何を考えたのでしょうか。「自分のやるべきことはなんなのか」「世界を見た父親が本当に見ていたものはなんなのか」。他方、同じ南部出身のショウハシは中山に続き、北山も支配することとなります。沖縄本島のほとんどを手中におさめたショウハシと南部の小さな地域を支配するタルミイ、勝敗はだれがみても明らかです。彼はどのように南山そして沖縄を未来に導こうとしたのでしょうか。そして、ショウハシとタルミイの戦いが始まります。
他魯毎にも悪い話が多く残されています。
他魯毎は尚巴志の持っている金屏風が欲しくて、当時とても大切であった水源と交換することとしました。今でも井戸はとても大切にされている沖縄において、当時も大きな反発を招きました。水を奪われた農家たちは、農業を続けられなくなったのです。それにより、南山内での信頼を失い、追われるようにして南山からその地位を失ったということです。尚巴志との戦いの時には、自分の城から他魯毎に攻撃があったとも伝えられています。
初めは周りから推挙されたり、父親がおじに殺された悲惨な経験を持っていたりする他魯毎が、突然自分の物欲を強く出していく人物になるというストーリーがどうも腑に落ちません。
南山は尚巴志によって島添大里城を落とされてすぐに、他魯毎の父親である汪応祖が南山王になります。その際に中国に沖縄チャイナタウン(久米村)から王茂(おうも)を南山の使者として送っています。この人物は数年後、尚巴志が中山を落とした際に尚巴志たちの参謀となった人物です。こんなことを見ていくと、南山と尚巴志は以前から繋がりがあったのではないかと思えてきます。ある学説では、「そもそも南山は中山を攻める前に、すでに尚巴志が支配していた」とも言っています。そのように考えると、他魯毎がどのような支配者となり、他魯毎と尚巴志がどのように戦ったのか、ちょっと想像してしまいませんか。戦いには2人の策略があったのでないかと私は想像しています。
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