琉球武将 ブネイ
今から600年ほど前に沖縄で最も栄えていた中部地域(中山)を治めていた武将(按司)が武寧になります。武寧の父をはじめ、先代の支配者たちがとても個性的であるためか、武寧自身はあまり日の目を見ない存在です。中山の始まりとされている舜天(しゅんてん)はその父が日本本土から流れてきた源氏であったり、彼の父の母親は天女であったり、ファンタジーの域に属する歴史を展開していますから、やはり武寧は目立たなくなります。しかも、尚巴志に滅ぼされる中山最後の武将となるわけですから、今までにも書いてきたように、人徳がないから滅ぼされたという歴史的な説明がなされてしまっています。とても残念です。
沖縄と中国(明)との貿易は父親の察度(さっと)が始めました。もちろんそれ以前から中国大陸との行き来はあったはずです。しかし、その当時はモンゴル民族の国でした、そして建国されたのが明。モンゴル民族から漢民族が領土を奪還してできた国です。そのため国の運営への意気込みは大きかったはずです。当時は海賊(倭寇)が多く出ており、その扱いに困っており、実際日本本土に相談に行っていますが、交渉はうまくいかなかったようです。そうすれば、沖縄はとても大切なポジションと位置付けられます。日本へも朝鮮へも東南アジアへも、様々な地域への軸足となる地域となりました。そのため、沖縄が貿易から大きな利益を出し、その一番の港が中山の治めていた那覇浮島になります。
(以下フィクション)
このような環境で育ったブネイは沖縄で一番の文化人であったとことを想像させます。お金はある、中国からのものはある、中国からの知識は入る、中国と関連する人たちとの付き合いもある。当時沖縄にも中国大陸から人が入ってきており、チャイナタウンを作っていました。その一番の権力者は中山の参謀で、明との貿易のお膳立ての首謀者であったわけです。父の代から参謀となり、ブネイの代になっても中山を支えていました。
恵まれた環境で育った2代目が、先代を引き継ぐことはいつの世も大変なことです。いつも父親と比べられるが、貧乏から成り上がった父親に比べ、洗練されたブネイにはそんなハングリーさはない。当時輸入された中国大陸の楽器 三絃と読書を愛していたので、民衆との感覚は離れていくばかり。そんな環境に、ブネイの部下たちは反旗を翻します。当時南部地域の大きな勢力を落としたショウハシに支援を求めます。記録によると、ブネイは家臣たちへの気配りがなく、酒を呑み、女遊びに耽っているとのことです。ショウハシはその言葉を大義に、中山に攻め入ります。
前述の通り、ブネイの育った環境は沖縄のどこにもないものでした。中国大陸からくる文化や知性に魅了されていました。ただ利益を得るためとか、自分たちと考え方が違うからとか、そんなことで戦(いくさ)という殺し合いになることにどうしても理解を示すことができませんでした。それよりは音楽や知識を得ることにより、沖縄に新たな文化が芽生え、新しい沖縄ができるのではないかと考えていました。周りから見ると、昼間から音楽を奏でることは、遊んでいるようにしか見えなかったのです。ブネイの考えを周りの人たちは誰も理解できなかったのです。
そして、ショウハシ勢がブネイの居城である浦添城に攻めてきます。ショウハシとブネイは戦でどのような会話を交わしたのでしょうか。彼らはなんのために戦ったのか。
優秀な父親を持ったがため、武寧はとても生きにくかったのではないかと想像しました。貿易により沖縄が豊かになることは、だれもが賛成したでしょうが、そのために学を積み、訳のわからないことを言い出すことは歓迎されなかったのではないでしょうか。貧乏を知らない武寧は、当然恵まれた環境のおかげで知識人になっていたでしょう。そんな武寧のもつ思想は、その当時の沖縄の通念とはかけ離れて当然です。では知識人 武寧が描いた理想の沖縄とはどんなものだったのでしょうか。今回キャラクターを作っていくなかで、そんなことを想像していました。しかし、歴史にそのことは残されていません。尚巴志が中山を落とした後の武寧の記録はありません。お墓すら、あるのかないのかわかりません。(ただこの論文では武寧の三男の言い伝えについての調査が記されています)恵まれた環境にいながら、いやそれだからこそ苦しんできた人間 ブネイに共感できるところがあるのではないかと思います。ちょっと想像してみませんか。
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